考えてみる。

やっと落ち着き、パソコンに向かっています。
1年、早かったなぁ。
こうやってあっという間に卒業を迎えるのかも知れません。
6年は、長いようで短い。


下の記事についてご意見くださった方々、どうもありがとうございました。

今日はその話題について。
私は論述する能力に長けておりません。一介の医学生の思考ですので、至らぬ記述等あるやも知れませんが、ご容赦ください。
思うままをただ書き連ねた結果、長くなるとが予想されますが、よろしければお付き合いください。






私は「自分」の位置がよくわからなくなったのです。

この記事のコメントを読んでいて、私はあることに気がつきました。たった数年医学を学んだだけで、すでに自分は「こっち側」の人間になってしまったんだな、と。(これについては下の記事でトラックバックしてくださったshueさんも言っていましたね。)怖くなったのです。自分と非医療関係者(いわゆる一般の人)との間にすでにそんなにも認識の違いが生じているのだろうか。医学に携わっていなければ、このように思うこともなかったのだろう。そう、携わっていなければ?そうしたら私はどんな風にこの事件を見つめていたんだろうか。それで、皆さんに聞いてみたくなったのです。どのように、感じましたか?と。


まずは、私の母の話をしたいと思います。

私の母は数年前にS状結腸癌で入院しました。
発見が比較的早い時期だったので、患部を切除すれば完治すると、本人も私たち家族も固く信じていました。
術後は順調。しかし退院前の最終検査で転移が発見されました。肝転移でした。
退院を前に喜んでいた母の落胆はそれは大きなものでした。

肝の転移巣切除。これでやっと退院と誰もが思う一方で、母の容態は思わしくありませんでした。良くなるどころか日に日に背部痛が増し、うんうんと苦しそうに唸るばかり。

画像を見て医師はこう言いました。
「尿管が狭窄していますね。しかし、この陰影がきになるなぁ。骨転移かも知れない。」

結局、専門の検査が出来る病院へと転院。検査の結果、たぶん骨転移はないだろうとのことで、尿管狭窄に対する手術のみを行うことになりました。
母の手術を担当したのは比較的若い医師でした。彼は母に手術方法、考えられる合併症、望まれる結果、最悪の結果、それらを事細かに説明しました。そして、きっと完治しない、6ヶ月に一回は今回と同じような手術を受けてもらうことになるだろう、骨転移の可能性も完全否定できたわけでは無いと、付け加えました。
この後、父が憤慨していたのを覚えています。

母はこの頃から急に元気がなくなってしまいました。引切り無しに点滴していたため夜もトイレに立たねばならず、眠れない日々が続いたようです。心身ともに疲弊しきってしまった母を見ているのがとても辛かった。どうもしてあげられない自分が情けありませんでした。

もとの病院に戻ってからも、母はうつ状態にありました。
退院が長引いた一因でもあります。

結局、狭窄していた尿管に対する手術も1回のみ。骨転移もありませんでした。
現在、母はすっかり元気になり、毎日を楽しんでいます。

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父は言いました。
お母さんはあの医者の所為で鬱になったんだ。弱りきった病人に向かって、最悪の場合ばかり事細かに語って全く希望が見えてこない。大丈夫だ、の言葉一つもない。患者の不安を煽るようなことばかり言うとはどういうことだ。それが医師の仕事なのか。最近の若手医師というのはみんなそうなのか。尿管が狭窄したのだって、医療ミスではないのか。結局最後まで、手術が原因で尿管が狭窄したと認める医師はいなかった。原因を聞いても「わかりません。」としか言わない。何もないところにいきなり支障が出るはずもない。ミスだと思うからこそ、認めないのではないのか。と。



前述のとおり、母は3度の手術を受けています。
1度目はS状結腸切除
2度目は肝の転移巣切除
3度目は尿管狭窄に対する手術

父が医療ミスではなかったのか、と言及したのは2度目の手術です。
ミスだったのか否かと言われれば、否、だと思います。手術が何らかの形で関与して、母の尿管が狭窄してしまったのは明確です。しかし、手術に危険はつき物です。人為的に観血的に人体に細工を施すわけですから、すべてが安全でうまくいくなんてありえない。そして、不確かなこともいえない。肝に対する手術で尿管が狭窄するとも考えにくい。だから「わかりません。」だったのではないでしょうか。

そして、父が憤慨したのはこの3度目の手術の術前説明でした。
今はとかく詳しい「説明」が求められる時代です。行う治療について、のちに『聞いていなかった』ということが無いように様々な可能性について事前に説明しておく、というのは現代医療の「当たり前」なのでしょう。今後のトラブルを避けて、母の手術を担当した泌尿器科の医師は事細かに説明したのだろうと思います。大丈夫だ、なんて簡単に言えない時代になっています。確かな結果がわからない以上、断定を避けます。
私は両親とこの医師との間のやり取りの一部しか見ておりません。よって、実際にはどのような会話がなされていたのかはわかりません。しかし両親の話をきく限り、この事前説明を行った医師にも問題があったのだと思います。所詮人間同士の付き合いです。患者が疑心暗鬼になるような、希望も自信も喪失してしまうような説明の仕方には激しく疑問を感じます。このまま完治しないのではないか、骨転移もあるのではないか、そう思うと目の前が真っ暗になってしまったのだと、母は後に語ってくれました。

欠けていたのは『信頼関係』。ここの形成過程に何らかの障害があったか、もしくは形成段階にいたらなかったか。






今は『信頼関係』を築きにくい現実が存在するのだと思います。
まず、医師・患者の間に持たれる時間が絶対的に少ないこと。これは、病院によっても、診療形態によっても異なるものだとも思いますが、母の場合にはこれが満たされていませんでした。
次に、繰り返される医療ミス・事故についての報道そしてそれに煽られる医療不信。信頼しきれない、安心が置けない、そう思ってしまうのもわかります。人の命が関わってくる問題なのですから、なお更です。しかし、報道されてきた内容のどれだけが「事実」「真実」であったのかはわからない。今回の癒着胎盤の件にしたってそうですよね。マスメディアの力は強大です。よくも、悪くも。どんなに批判的に捕らえようとしても、一度報道された内容は先入観として、今後の判断知識として意識下に蓄積されていきます。誰かによって意図された情報を私たちは受け取っているといってもいいかも知れません。(ここについてはOssieさんがずいぶんと議論を広げてくれたようです。)
最後に、人々の意識の変化が挙げられると思います。昔に比べて誰もが自分の権利を主張するようになって来ました。しかし、互いの権利ばかり主張してもコミュニケーションが円滑に進まないのは少し考えればわかることです。人と人との意思疎通により関係が成り立っている、ということが当たり前すぎて、そこを軽視してしまう傾向に無いでしょうか。それは医師に限った話ではありません。患者にも同様にいえる事です。患者が医師のちょっとした一言で勇気付けられるように、医師もまた、患者の何気ない一言に元気をもらっているものなのではないでしょうか。目の前の相手に少しでも気持ちを向けられたなら・・・。そうすれば母の受けたような説明のしかただって、もっと違ったものになっていたかも知れません。




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長くなってしまいましたが。
今日はここまで。
続きはまた後日。
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by 2pinoko | 2006-03-07 17:29 | つらつら。
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