ぎりぎり“200万”世代

公立の小・中学校にはいろんな子供がいるものだ。

興味・価値観・家庭環境 もうそれはいろいろ。

高校・大学にはその理念に基づいた選抜試験なるものが存在するため
ある程度「共通項」を持った仲間が集う。
ココにも多種多様な人間が存在するが
公立の小・中学校の持つ独特の「多様」と異なる。


私はこの地域密着型公立小・中学校に育てられた。
鍛えられた。
大切な多くのことを学んだ。









思い返すと いろんな友達がいたもんだ。

本が大好きで読書量が抜きん出ていたAくん。
機械工学の知識には脱帽した。
でも、それ以外の勉強は不得意で
授業を座って聞いていることができなかった。

いつも遠慮しがちなCちゃん。
動物にとってもやさしかった。
でも6年生になっても2桁の計算が出来ず、算数の時間はいつもうつむいていた。
人に言われたことがなかなか守れず、忘れ物ばかりだった。

細かい仕事が得意なDくん。
軽快な笑い声は心地よかった。
でも、すぐに自分の世界に没頭し、そうなるとまったく人の話を聞かなかった。
落ち着かず、ふらふらしてばかりだった。












AD/HD

最近、よく聞くこの言葉。
診断名がついて、障害だとか言われたら、その言葉の重みに私は少々たじろいでしまう。
ADDだとかADHDだとか、その意を知ってから思うのは
私の級友もそうだったのかもしれないな、ということ。

これらが障害だと一般的に言われてしまうのは、彼らの生きている時代が『現代』だから。
例えばこれが歴史の転換期においては障害ではなかったのだろう。
アインシュタインや坂本竜馬、織田信長なんかもAD/HDだったのではないかというのは有名な話。おまけ。黒柳徹子も。
その個性が周りの人間たちを様々な形で感化し適応させていった。
時代の流れによっては、AD/HDと分類される人々にとっては生きやすいこともあるだろう。
時代が必要としていた、とも言える。

しかし、生きる環境が異なれば、調和を乱すものとして扱われることもある。





最近、何でも『診断名』を欲する傾向がありませんか。
細分化する。
どこかに自分をカテゴライズする。
属性がはっきりとわかれば、確かに次の行動がとり易い。
マニュアルを、プロトコールを探すことが出来る。
先を知ろうとする、知る取っ掛かりをつかむという面において、そのメリットは大きい。

でも、診断名のもつ言霊の与える影響も否定できない。
そのせいで、大切なものが抜け落ちてしまうことはないか。
言葉に囚われ過ぎてはいないか。
見えるようになってきたものがある一方、曇りガラスに覆われてしまう部分もあるのではないかと、ふとそんな風に思った。




この子はココが苦手。
だから、それをフォローできるようにしなければ。
周囲との摩擦を小さくしていけるように。
よい面は温存して、伸ばしていけるように。
AD/HDがクローズアップされるようになった今も
そうでなかった昔も
必要なことは変わらないと思うんだけれどなぁ。





ほしいのは『診断名』ではなく『その先』









~おまけ~

「診断名、なんていったら、俺は絶対なんかの名前がついてると思うよ。」

あはは、確かに!!
激しく同意!!





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こんなものを見つけました。
爆笑。

ああ、あるある!頷いてしまった。

↓↓
あなたに根付く、県民性。






銀世界を走りすぎて、携帯電話をなくしてしまったようです。

返信がない、電話に出ない、と怒らないでね。

銀世界を走りすぎた結果です。
そこに新たに雪が積もった結果です。






春が楽しみです。
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by 2pinoko | 2005-12-11 22:11 | つらつら。
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